藤村操、あるいは自殺の美を疑うこと
2006年11月3日 時事ニュース コメント (2)最近10代の自殺ニュースが連続して入ってくる。
(特に若者の)自殺はなぜこうも連鎖するんだろうと思う。
だけど、同じような年齢の他者の死に背中を押される気持ちは分からなくもない。
私も散々死にたいだの死ぬだの思ったりしてきたが、
struggle(と、それを自分で呼んでいる;言ってみればもがき?)は継続中であり、死の実行はしていない。
それは臆病者だろうか。
死でピリオドを打つ切符を手にした人は勝者なのか。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』で、主人公ウェルテルは最後に自殺する。
ヨーロッパではこの本に感動した人の自殺が流行するという、
所謂「ウェルテル効果」が起こった。
これと同じように、日本でも約100年前、
旧制一高の学生、藤村操の自殺に端を発した、若者たちの自殺の連鎖があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D
藤村は日光の華厳の滝から投身自殺をした。
華厳の滝は以来自殺「名所」として有名になり、今でも年間少なからぬ人数が死んでいる。
彼は滝壺に飛び込む前に、傍らの木に辞世の詩を書き残している。
巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、
曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
*参考*
(Wikipedia)
(書き残された木の写真あり、詳しく説明されている:
http://www.geocities.jp/sybrma/02hujimura.htm)
この自殺に関し、以前どこかで読んだエピソードがある。
藤村操の死は、彼が孤高のエリートであったことと、
厭世観をこめ、人生の真実が「不可解」であるとしたこの詩の存在によって美談となった(また、彼は紅顔の美少年であった)。
藤村の通っていた旧制一高(後の東京帝国大学)の生徒たちは
彼の死に大きな衝撃と同情を覚え、
ままならない自己を抱えてのうのうと生きながらえている自分たちは、
死ぬことも出来ない臆病者である、
とする雰囲気が高まった。
同じ旧制一高生に、後に岩波書店を創業する岩波茂雄がいた。
彼は、藤村の厭世観の影響を受けて一時学業を放棄し、
一高から除名処分を受けている。
自殺賛美の傾向の中、冷静だったのは理系クラスの斎藤茂吉だったと言う。
彼は、
死人に口があるわけでは無し、どんな理由で死んだのかほんとうのことは分からない。確かに人生は不可解である。だが、不可解であるが故に生きていて何の不都合があるか。
と、友人らをたしなめた。
(*実際、藤村の自殺原因に関しては様々な考察がある。)
自殺のニュースを読んでいて、このことをちょっと思った。
厭世観の自殺といじめによる自殺では、至近要因が違う(究極要因は私には分からない、あるいは彼らにも分からないかも知れない)。
はらんでいる社会的問題が違う。
しかし、自殺のニュースに背中を押され、彼らが自殺を決心したならば、それは一種(亜種?)のウェルテル効果であろう。
兎に角、自殺は美でも勝利でもない。
(と私が言っても全く説得力が無いか)
「不可解であるが故に生きていて、何の不都合がある。」
これは、いじめ問題と関連付けて説得できる言葉では無いし、彼らに言う言葉としては適切でないだろう。
しかし、死を決意した際に踏みとどまる言葉として、
斎藤茂吉の言葉は強く胸に残っている。
辛さとともに生きることは不都合ではない。
生きていることは人間を貶めるものではない。
不可解を受け入れても生きること、
死を選んでしまったら、そこで時間は止まってしまう。
"She said I know what it’s like to be dead.
I know what it is to be sad
And she’s making me feel like I’ve never been born."
(The Beatles、She Said, She Said)
"… play the game "Existence" to the end
Of the beginning, of the beginning"
(Tomorrow Never Knows)
(特に若者の)自殺はなぜこうも連鎖するんだろうと思う。
だけど、同じような年齢の他者の死に背中を押される気持ちは分からなくもない。
私も散々死にたいだの死ぬだの思ったりしてきたが、
struggle(と、それを自分で呼んでいる;言ってみればもがき?)は継続中であり、死の実行はしていない。
それは臆病者だろうか。
死でピリオドを打つ切符を手にした人は勝者なのか。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』で、主人公ウェルテルは最後に自殺する。
ヨーロッパではこの本に感動した人の自殺が流行するという、
所謂「ウェルテル効果」が起こった。
これと同じように、日本でも約100年前、
旧制一高の学生、藤村操の自殺に端を発した、若者たちの自殺の連鎖があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D
藤村は日光の華厳の滝から投身自殺をした。
華厳の滝は以来自殺「名所」として有名になり、今でも年間少なからぬ人数が死んでいる。
彼は滝壺に飛び込む前に、傍らの木に辞世の詩を書き残している。
巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、
曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
*参考*
(Wikipedia)
(書き残された木の写真あり、詳しく説明されている:
http://www.geocities.jp/sybrma/02hujimura.htm)
この自殺に関し、以前どこかで読んだエピソードがある。
藤村操の死は、彼が孤高のエリートであったことと、
厭世観をこめ、人生の真実が「不可解」であるとしたこの詩の存在によって美談となった(また、彼は紅顔の美少年であった)。
藤村の通っていた旧制一高(後の東京帝国大学)の生徒たちは
彼の死に大きな衝撃と同情を覚え、
ままならない自己を抱えてのうのうと生きながらえている自分たちは、
死ぬことも出来ない臆病者である、
とする雰囲気が高まった。
同じ旧制一高生に、後に岩波書店を創業する岩波茂雄がいた。
彼は、藤村の厭世観の影響を受けて一時学業を放棄し、
一高から除名処分を受けている。
自殺賛美の傾向の中、冷静だったのは理系クラスの斎藤茂吉だったと言う。
彼は、
死人に口があるわけでは無し、どんな理由で死んだのかほんとうのことは分からない。確かに人生は不可解である。だが、不可解であるが故に生きていて何の不都合があるか。
と、友人らをたしなめた。
(*実際、藤村の自殺原因に関しては様々な考察がある。)
自殺のニュースを読んでいて、このことをちょっと思った。
厭世観の自殺といじめによる自殺では、至近要因が違う(究極要因は私には分からない、あるいは彼らにも分からないかも知れない)。
はらんでいる社会的問題が違う。
しかし、自殺のニュースに背中を押され、彼らが自殺を決心したならば、それは一種(亜種?)のウェルテル効果であろう。
兎に角、自殺は美でも勝利でもない。
(と私が言っても全く説得力が無いか)
「不可解であるが故に生きていて、何の不都合がある。」
これは、いじめ問題と関連付けて説得できる言葉では無いし、彼らに言う言葉としては適切でないだろう。
しかし、死を決意した際に踏みとどまる言葉として、
斎藤茂吉の言葉は強く胸に残っている。
辛さとともに生きることは不都合ではない。
生きていることは人間を貶めるものではない。
不可解を受け入れても生きること、
死を選んでしまったら、そこで時間は止まってしまう。
"She said I know what it’s like to be dead.
I know what it is to be sad
And she’s making me feel like I’ve never been born."
(The Beatles、She Said, She Said)
"… play the game "Existence" to the end
Of the beginning, of the beginning"
(Tomorrow Never Knows)
コメント
こういうことだけは良く思いつく私、相当黒いです。
各省庁の出す一種の内部資料をパラパラ見ていると、こういう筋近いな話が多くて笑うしかないことは結構あるもので・・・
しかし省庁の内部資料では、困ってしまいますね・・・。
ちなみに、私も相当黒いこと考えたりします(汗)