ridiculous

2006年9月17日
私は本当に生物学が好きなのだろうか。
確かに、高校生のころは好きだった。まだ知らないことへの憧れがあった。

最近の私はどうだろう。
我を忘れて打ち込めるテーマなど持っていない。
実際、今の私の生き方の情けなさといったら無い。
積極的に行動しようとせず、うじうじとくすぶり、いやだと思いながらも他人や環境のせいにし、いじけている。
しかしその環境を打ち破る力も持ち合わせておらず、うまく行かないことのみを嘆いて努力しない。
その癖、下らないプライドの残りかすだけはしっかりと持っている。

子供のときに好きだった本を読むと悲しくなってしまうのは、こうなってしまった自分への自己憐憫では無いだろうか。
こんなはずじゃなかった。いつの間にこうなってしまったんだろう。

私はいつまでたっても動かない。岩のようにこもり、偉そうな口を利くくせに気は小さく、安全な子宮の中から出てこようとは決してしない。

それは、自分の下らないプライドが傷つけられるのを恐れるからである。
そうならないために行動することを諦め、失敗を恐れるあまり努力をしない。
自分の知識の浅いことが暴露されること、あるいは自分の能力が他より劣ることが明るみに出るのを恐れ、議論や質問をすることが出来なくなっている。

そうして自己の下らなさを知っているにも拘らず、そこから脱却できない・脱却しない(?)。結局その自意識も下らないナルシシズムから由来しているのかもしれない。かくして、「可哀想な自分」「情けない自分」に甘んじている。

私にはオリジナリティーが無い。
多くの本を読んできたと言ったって、自分の言葉で語ることが出来なくなっては全くどうしようもないだろう。
私の話す言葉、書く言葉、その一つひとつは、他人からの影響を大きく受けている。脳内の記憶を引っ張り出せば、その全てはどこかで見たような表現、錆付いた使い回しである。

Le style est l’homme meme. (文体は人そのものである)
その文体が一定しないところにも表れているだろう。

そして、私の言葉は、対外的には、裏で常に自分をよく見せたいという意図を持って発せられているような気がする。それは主に、下らない自分を隠すためである。

大体このような考え方自体が、自分自身の甘さを表していると思う。
そうでなければ、そういつもこんなはずじゃなかったと悲観するわけがない。
世の中に対して甘い考えを持ち、自分自身に自惚れ、空虚なプライドを持っていた人間だけが、いつもいつも「自己嫌悪」「自己憐憫」「呵責」「内省」、そんなことばかり繰り返し繰り返ししているのだろう。

私はごく小さいころに深いプールに落とされた経験があり、その恐怖から小学校に入っても長いこと泳げなかった。
それでも、夏休みのプールは毎日通い、ついに泳げるようになった。
あのときの自分に謝りたいと同時に、真剣に聞きたいと思う。
目的を持ち、実現に希望を持ち、それに向かって闘っていくということは、どうやってやればいいのか。
Toute les grandes personnes ont d’abord été des enfants.
(Mais peu d’entre elles s’en souviennent.)
  Entoine de Saint-Exupéry
  Le Petit Prince


全ての大人は初め子供であった。 (しかしその事を覚えている大人は殆どいない)

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