草思社

2008年1月11日 時事ニュース
この本を高校生の時に飽きるほど読んで進化生態学を志した身にとって,草思社の民事再生法申請のニュースはショックだった.

サイエンスマスターズシリーズが好きだ.
特にこの『生物はなぜ進化するのか』は『利己的な遺伝子』よりも分かりやすく,面白いと思う.

自費出版商法の新風舎が潰れてもへとも思わないが,地味でもいい本を出している草思社は何とか立ち直ってほしい.
MySpace sued by UniversalMusic

http://news.bbc.co.uk/1/hi/business/6160414.stm

You Tubeも一時期物凄かったですが、My Spaceも時間の問題だな、と思ってました。自分のページにプレイヤーをおいて、好きな音楽を流せるんですよ。。。

My Spaceといえば、
アメリカの中学生の女の子が"Kill Bush"と書きこんだら、その子の通う中学校にシークレットサービスが来てしまったという話をどこかで聞きました。
ある意味異常です。
最近10代の自殺ニュースが連続して入ってくる。
(特に若者の)自殺はなぜこうも連鎖するんだろうと思う。
だけど、同じような年齢の他者の死に背中を押される気持ちは分からなくもない。

私も散々死にたいだの死ぬだの思ったりしてきたが、
struggle(と、それを自分で呼んでいる;言ってみればもがき?)は継続中であり、死の実行はしていない。
それは臆病者だろうか。
死でピリオドを打つ切符を手にした人は勝者なのか。

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』で、主人公ウェルテルは最後に自殺する。
ヨーロッパではこの本に感動した人の自殺が流行するという、
所謂「ウェルテル効果」が起こった。

これと同じように、日本でも約100年前、
旧制一高の学生、藤村操の自殺に端を発した、若者たちの自殺の連鎖があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D

藤村は日光の華厳の滝から投身自殺をした。
華厳の滝は以来自殺「名所」として有名になり、今でも年間少なからぬ人数が死んでいる。

彼は滝壺に飛び込む前に、傍らの木に辞世の詩を書き残している。

巌頭之感

 悠々たる哉天壤、
 遼々たる哉古今、
 五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
 ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
 萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、
 曰く、「不可解」。
 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
 既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
 始めて知る、
 大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

*参考*
(Wikipedia)
(書き残された木の写真あり、詳しく説明されている:
http://www.geocities.jp/sybrma/02hujimura.htm)

この自殺に関し、以前どこかで読んだエピソードがある。

藤村操の死は、彼が孤高のエリートであったことと、
厭世観をこめ、人生の真実が「不可解」であるとしたこの詩の存在によって美談となった(また、彼は紅顔の美少年であった)。

藤村の通っていた旧制一高(後の東京帝国大学)の生徒たちは
彼の死に大きな衝撃と同情を覚え、
ままならない自己を抱えてのうのうと生きながらえている自分たちは、
死ぬことも出来ない臆病者である、
とする雰囲気が高まった。

同じ旧制一高生に、後に岩波書店を創業する岩波茂雄がいた。
彼は、藤村の厭世観の影響を受けて一時学業を放棄し、
一高から除名処分を受けている。

自殺賛美の傾向の中、冷静だったのは理系クラスの斎藤茂吉だったと言う。

彼は、
死人に口があるわけでは無し、どんな理由で死んだのかほんとうのことは分からない。確かに人生は不可解である。だが、不可解であるが故に生きていて何の不都合があるか。
と、友人らをたしなめた。

(*実際、藤村の自殺原因に関しては様々な考察がある。)

自殺のニュースを読んでいて、このことをちょっと思った。

厭世観の自殺といじめによる自殺では、至近要因が違う(究極要因は私には分からない、あるいは彼らにも分からないかも知れない)。
はらんでいる社会的問題が違う。
しかし、自殺のニュースに背中を押され、彼らが自殺を決心したならば、それは一種(亜種?)のウェルテル効果であろう。

兎に角、自殺は美でも勝利でもない。
(と私が言っても全く説得力が無いか)

「不可解であるが故に生きていて、何の不都合がある。」

これは、いじめ問題と関連付けて説得できる言葉では無いし、彼らに言う言葉としては適切でないだろう。
しかし、死を決意した際に踏みとどまる言葉として、
斎藤茂吉の言葉は強く胸に残っている。

辛さとともに生きることは不都合ではない。
生きていることは人間を貶めるものではない。
不可解を受け入れても生きること、
死を選んでしまったら、そこで時間は止まってしまう。

"She said I know what it’s like to be dead.
I know what it is to be sad
And she’s making me feel like I’ve never been born."
(The Beatles、She Said, She Said)

"… play the game "Existence" to the end
Of the beginning, of the beginning"
(Tomorrow Never Knows)
この問題に目をやると、ああ何だかな、としか思えません。
灘高もか・・・。

この時期から補修の負担がかかるのは非常に酷なことだと思います。
その分今までの授業時間は受験科目に充てられていたじゃないかと言えばそうですが、
その今までの時間を必修科目を普通にやるほうを取るか、
それとも受験が迫った時期に補習として受講するか、
と聞かれれば、私ならまず間違い無く前者を取ります。

ちなみに、私自身の履修漏れは絶対に無いと断言できます。
(何だかいつもと文体が違いますが、感想ということで気分が普段の日記と違うのでお許しください。この日記、偽善者っぽい文かも・・・)

私の高校は、文理のクラス分けはなく、
高校2年まで皆全て同じカリキュラムで、3年間で全ての教科・科目を履修させる形式を取っていました。

3年からのみ単位制となり、自分の学びたい科目、強化したい科目を自己責任において履修しますが、2年までに入りきらない科目は必修単位として3年でも履修が義務付けられました。

結果、
   現代文、古文、漢文
   数学?〜?、数学A〜C、
   英語(Reader、Side Reader、Oral Communication、Grammar、Writing)
   世界史、日本史、地理
   倫理、政経、現代社会
   化学、物理、生物、地学
   芸術、保健、体育
   家庭科(2年と3年)←3年の時は調理実習が心のオアシスでした(笑)
   フランス語(選択制、2年間だけ、放課後行われた)
   
詰め込みすぎ、でしょうか?
余談になりますが、理科は実験を毎週行っていたので、更に大変でした。時間が過ぎてしょっちゅう放課後になっていました。
でもすごく楽しかったです。提出する生物や化学の実験ノートから、実験の力の基礎、研究の基礎を教わった生徒はとても多いと思います。チェックがものすごく細かかったので・・・(笑)

私は理系で生物専攻ですが、
高校で学んだ政治経済も世界史も物理も倫理も漢文も地理も、本当に役立っています。
大学に入ってからの勉強でも、生活においても、あらゆる場面で、引き出しに入っている過去の知識が私を助けてくれました。

こうしてみると、全ての科目を満遍なく学べる学校で本当に良かったと思います。
全人教育を理念としている高校で良かった。

「受験」の実績をあげる、という点で見るなら、
この方針は確かに非効率だと思います。
実際、私の母校の浪人率は、学区で一応トップの癖に5割程度でした。全然ぱっとしませんし、東大合格者の数も減っています。

現在は体制を色々変えているようですが、私としては「受験教育」ではなく、「全人教育」の精神を忘れないでいて欲しいと思います。

そのときは全て学ぶという方針に文句を言った覚えもありますが、あのとき受験のためだけに学んでいたら、今の自分は無かった。
今よりももっと視野の狭い、底の浅い人間になっていたと思います。

受験生の気持ちは想像できます。
貧乏くじをひいた、何でこの時期に!って思っていることでしょう。
必修科目のことまで分かるか、学習指導要領なんか知るか、
高校では先生の言う通り、設定する通りちゃんとやっていれば良いと思っていたのに…。

確かに高校生には必修科目を知らない子も多いでしょう。
これから受験・進学することになる大学では、履修届けを自分で出し、必修の履修は自己責任で行われます。
しかし、高校生に自己責任意識を言っても仕方ない気がします。

今まで世界史を学べなかったのは損だ、
という気持ちにはきっとなれないでしょう。

それはまあ当然と言えば当然の心理だと思います。
日本のトップレベル大学は「入学は難しく、卒業は比較的簡単」ですし。

今は分からないでしょうし、一生分からない人もいるかもしれません。
(受験科目だけを、という主義の人が、東大法学部に入って日本の行政や教育制度を担うことになるのはちょっと寂しい気もしますが・・・
ただ、自分で視点や視野を広げられる人ならその後発展するのでしょう。

しかし言わせてもらうならば、高校生の時期に、その感性で触れることが大切な知識・分野は様々あり、限定されるべき物ではないと思います。)

悲しいと思うのは、大人の姿勢です。
学校が率先して学習指導要領を無視し、目先のメリットを重視していたということです。

教育に関わる大人は、それに理念や熱意を持ってその世界に入ってきた人たちではないでしょうか。
青臭いことを言うんじゃない、現実はもっと厳しい、
受験対策が高校の役目だ、合格実績だ、
と言うなら、なんだか悲しいです。

多分これは、青臭い若造の机上の空論、理想主義、そんな風に片付けられてしまう考え方なのかもしれません。
でも、受験科目しか教えない、それでいい、としてしまうのは、
ものすごく大切なこと、教育において土台となることを忘れているのじゃないでしょうか。

教育実習したときに思いましたが、
学校で人を教育するとは、人に叩き込む、詰め込む(cram)ことではなく、
知識によってその人の視野を広げ、深みを持たせること、
人間を形成する手伝いをすること
だと思います。
cram したいなら、cram school(進学塾、大学受験予備校)があります。
通うにはお金がかかりますが、だからって高校がcram school化していいでしょうか。

その考えが青臭いんだと言うなら、別に自分は青臭くてもいい、と今は思っています。
免許取得した癖に教育の道に行かなかった私が言っても、ご勝手に、って感じかもしれないですが。

cram school(Answer.comより)
n.

A school especially in Japan that prepares its students for university entrance examinations by way of an accelerated curriculum.

"especially in Japan"ですか・・・。

ちなみにcramの定義ですが、
他動詞では(Answer.comより)

1. To force, press, or squeeze into an insufficient space; stuff.
2. To fill too tightly.
3.
1. To gorge with food.
2. To eat quickly and greedily.
4. Informal. To prepare (students) hastily for an impending examination.

hastily...
09月12日付 朝日新聞の報道「「あやかり命名」増えそう 秋篠宮家の新宮さま」へのコメント:
09月09日付 朝日新聞の報道「長崎県警捜査2課長、女性記者にセクハラ 県警が調査」へのコメント:

県警によると、警視は今年5月夜、長崎市内にある自宅の県警官舎を取材で訪れた県警担当の女性記者を室内へ招き入れ、抱きつくなどのセクハラ行為をしたという。警視は酒に酔っていたらしい。


これは見逃せないニュース。この事件が明るみに出た事で、警察全体がきっちり対応して欲しい。

産経新聞の同記事↓
http://www.sankei.co.jp/news/060909/sha011.htm
によれば、

記者は後日、精神的なショックで入院したという。


引用の朝日記事によれば、
同局関係者によると、女性記者は現在、仕事を休んでいるという。


キャリアまで台無しにされてしまった。

以下、やや沸騰した頭で書きます。

ふ ざ け ん な。

どれだけの恐怖か分かっているのか。
警察は何のためにあるっていうんだ。むしろセクハラに悩む人を助ける筈じゃないのか。本当に国民のための警察なのか。

個人的にはこんな野郎は死刑にしたいくらい。死刑にしなきゃなくならないのかと思える位、セクハラは湧いてくる。

・・・いや、客観的に見たらセクハラで死刑は無いって分かってます・・・。

だけど、自分のエゴがどれだけ相手の心に衝撃を与えるのか、分かってもいないし分かろうともしない、そんなヤツが警察にいるなんてぞっとする。解雇しろ解雇!

今までだって似たようなことがいっぱいあったかもしれない。記者へのセクハラ。だけど、マスコミ会社にとって、警察は大切なネタ提供者。立場は上である。
そうした立場を利用して、今までにもこんなことあったかもしれない。で、その会社の記者にだけネタをくれなくなるようなことがあったら困るとか言われて、泣き寝入りしていたかも知れない。
こうしたセクハラの噂は噂として聞くのに、一向にメディアで大っぴらにならないから、そう疑ってしまう。

(ネタの提供の立場では)
警察>記者

警察>マスコミ

そして、雇用者として

マスコミ>記者

であるから。

* * *
09月07日付 朝日新聞の報道「阪大教授らの論文に「疑問」 共同執筆者の1人が自殺」へのコメント:

個人的に見逃せないニュースが続いてしまった。

大阪大大学院生命機能研究科(大阪府吹田市)の教授らのチームが専門誌に投稿した論文について、同研究科の助手(42)ら複数の共同執筆者から「データに疑問がある」という指摘が出され、大学が8月初めから調査をしていることが分かった。この助手は今月1日に自殺しており、大学は関係者から聞き取り調査を進めている。


自殺と論文疑惑との関係はまだ分かっていないらしい。
本当に関係が無いのだったとしたら私の感想は全然別の物になると思う。だから、この感想はあくまでもこの事件とは別の物としておきたい。また、捏造そのものに関しての感想ではない。

研究室の中での力関係は、当然上から順番である。だが、助手はある意味学生よりも厳しい立場に置かれる。学生は「学生」であり、「社会人」としてずっとそこで働いて行かねばならないということはない。嫌だったら民間に就職するなり、公務員になるなり、皆研究室を去っていく。

しかし、助手は「職業」である。そこには生活がかかっている。ドクターを経て、ポスドクを経て、その他色んなところで研究員をやったり非常勤講師をやったりしながら転々としてやっと得た助手の座(愚策・ポスドク1万人計画により、状況は更にシビアに)。そうして、研究の世界で自分が生き残っていくには、上司との関係は非常に重要だと思う。助手は大体が任期付きであり、その後自分がどこで働くのか、どんな身分になっているのかには、本人の実力と同様に「コネ=人脈」、「教授のプッシュ」が必要だろう。

だから助手という立場の方が亡くなったことに関して色々邪推してしまう。パッと見ただけでは、「何だ捏造くらいで自殺するほどのことか」という印象も受けてしまうが、研究(室)の世界とは、「このような問題が研究者としての将来にまで影響してしまう世界」に見えてならない。この場合の将来とは、「捏造で経歴に泥がついた」ことだけではなく、もっと裏、コネと人事異動的な問題。私も考えすぎなのか?

「疑問」と自殺の関連が分からない以上、全ては邪推にしか過ぎないが。阪大は最近色んな事件が相次いで起こったので、随分イメージを落としてしまったのでは。他の真面目な研究者の方々には名誉挽回をしてもらいたいな、と思う。
09月07日付 朝日新聞の報道「インスリンが脳の「学習」に関与 東大助教授ら発表」へのコメント:

脳で学習機能が働くには、体内で糖分の消費や貯蔵にかかわるインスリンが欠かせないらしいことを、飯野雄一・東京大助教授(行動遺伝学)らの研究グループが、動物実験で示した。7日付の米医学誌ニューロンで発表した。将来、認知症の治療などに役立つ可能性もあるという。


遺伝子操作でインシュリンを作れなくした線虫は学習機能を失ったらしい。

ホルモン応答については、動物でも植物でも分かっていないことが多い。インシュリンといえば糖尿病患者が注射するように、このように、血糖値の上昇を抑える役割が有名。一つのホルモンの影響がさまざまに存在することも未解明の機能が多い所以だと思う。

認知症の治療に役立って欲しいと思うが、もしこの知識が悪用されたらと思うと、怖いとも感じる。この線虫のようにインシュリン合成遺伝子欠損のノックアウトヒトクローンでも作られたら大変。インシュリンが出来ないと死んでしまうだろう。だから、多くの国でまずそんな事は無いと思うけど、どっかの外国なんかやりそう。

ただ、ヒトの場合に、線虫と同じように学習機能が無くなるor低下するのかどうかはちょっと分からない。倫理に触れない方法で実験するしかないのかも。

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