藤村操の自殺に関し、斎藤茂吉が諭した言葉について一つ前に書いたが、正確なものを見つけた。
「君よ藤村の死を羨しとおもひ給ふ事なかれ・・・・死人 口なし如何なる理由で死んだか真に分るものにあらず宇宙の真相を不可解と観じ棄てて死せりとはいへどああ思へ給へ・・・・・分らざるが為めに生きて居て何の不都合かある」(明治36年9月8日吉田幸助宛の手紙)
一方、岩波茂雄であるが、
「死以外に安住の世界がないことを知りながら自殺しないのは、真面目さと勇気が足りないからである」
そう自らを責め、周りからは彼も自殺するのでは、と心配された。
弱い私は、岩波茂雄の考えに非常に共感する。
眠りから目が覚めて一日を始めるとき、
「ああ目覚めたくなかった」と感じる思いや、
ときには激しく「死んでしまいたい」と憧れる感情は、
いっそ何もかもやめてしまえばいいのにと思わせる。
死ぬことが最高の安らぎであると思わせる。
それなのに苦しい現実世界で生きているのは、
やっぱりどこかで死ぬ瞬間を怖がっているのではないか。
自分の気持ちは真摯ではなく、ただの甘えなのだ。
それは臆病者だからだ。
そんな風に考えることはよくある。
そうして、「死なないで生きている意味」を考えてしまう。
wikipediaに「人生の意義」という項目を見つけ、日本語だけでなく外国版も読んでみる。
全てぴんとこない。よく分からない。
この為に自分は死なないで生きているのか?
ただそれがいつの時代も世界普遍のテーマであることが分かったのみである。
ここまで考えて、ああ自分も藤村操のところに思考が舞い戻ってしまってるじゃないかと気付いた。
人生不可解→不可解を受け入れて生きる
という斎藤茂吉の言葉を忘れないようにしなくっちゃ。
当時の斎藤茂吉は藤村と同級であった。
だから若干16歳くらいだっただろう。
私は彼の早熟な冷静さが羨ましい。
「君よ藤村の死を羨しとおもひ給ふ事なかれ・・・・死人 口なし如何なる理由で死んだか真に分るものにあらず宇宙の真相を不可解と観じ棄てて死せりとはいへどああ思へ給へ・・・・・分らざるが為めに生きて居て何の不都合かある」(明治36年9月8日吉田幸助宛の手紙)
一方、岩波茂雄であるが、
「死以外に安住の世界がないことを知りながら自殺しないのは、真面目さと勇気が足りないからである」
そう自らを責め、周りからは彼も自殺するのでは、と心配された。
弱い私は、岩波茂雄の考えに非常に共感する。
眠りから目が覚めて一日を始めるとき、
「ああ目覚めたくなかった」と感じる思いや、
ときには激しく「死んでしまいたい」と憧れる感情は、
いっそ何もかもやめてしまえばいいのにと思わせる。
死ぬことが最高の安らぎであると思わせる。
それなのに苦しい現実世界で生きているのは、
やっぱりどこかで死ぬ瞬間を怖がっているのではないか。
自分の気持ちは真摯ではなく、ただの甘えなのだ。
それは臆病者だからだ。
そんな風に考えることはよくある。
そうして、「死なないで生きている意味」を考えてしまう。
wikipediaに「人生の意義」という項目を見つけ、日本語だけでなく外国版も読んでみる。
全てぴんとこない。よく分からない。
この為に自分は死なないで生きているのか?
ただそれがいつの時代も世界普遍のテーマであることが分かったのみである。
ここまで考えて、ああ自分も藤村操のところに思考が舞い戻ってしまってるじゃないかと気付いた。
人生不可解→不可解を受け入れて生きる
という斎藤茂吉の言葉を忘れないようにしなくっちゃ。
当時の斎藤茂吉は藤村と同級であった。
だから若干16歳くらいだっただろう。
私は彼の早熟な冷静さが羨ましい。
コメント
私にはあまりに難しすぎた・・・
その予備校の先生は、そう言って受験生を鼓舞していたのでしょうか。自殺する人の中には、自分が死ぬことによって多少とも世間の人々に影響を与えたいという意図を持っている方もいるでしょうね。
しかし、いじめによる自殺も何も、メッセージ性を持って死んでいっても結局は時代に呑み込まれていくなあと少し空しさを感じます。いじめは無くならない、自殺も無くならない、とうとう自殺予告も起こってしまいました…。
ご紹介いただいた本の、「生きていることの科学」というタイトルに少し考えさせられました。
生きる=エネルギーを使い、エントロピーの増大を防いで多細胞生物として保っている、そして遺伝子のベクター、そんな考えしか浮かんでこないです。。。だから何で生きているのかとか考えちゃうんですかね・・(汗)
獲得形質は遺伝しない=努力しても報われない
と考えていたこともありました。
本を教えていただいてありがとうございます。
書店に寄ったら見てみたいと思います。
ちきさんは生理学的な観点から生命を考えているのかな?私はシステム生態学を基礎にしているせいか、リアルな存在を上手く表現できず、好き嫌いがプロモートする身勝手なmatter flowを引き起こすコンパートメントという形で考える事が多いです。生きている事の非合理性の表現方法を、個体と環境の間でのエントロピーの相反する部分から導いてこれを基礎にスケールアップした場合の結果と、ある面的スケールの上での物質循環の撹乱要素となるコンパートメントを解析的に見る事は、方向は逆ですが過程と結果を検証する際には、上手く作用する可能性があるのかと考えたりします。
自殺予告、あれは賢いと言えば賢いけど、11日に自殺するであろう本人の色々な所に当てた手紙のバックアップを、教育界以外の場所で見つかるようにしておかないと、教育関係者はまったく無謬、いじめる方は将来に残る汚点を何一つ付ける事無く卒業して行くでしょう。そして書かれていた事は全く公表される事なく廃棄されるでしょう。だって、いじめは無いと言いはってきたんだから、それに矛盾する事を受け入れる必要は無いし、問題児を指定すれば責任の所在は担任教師と校長になってしまうから。
カーニバル的社会では時が物事を風化させるのではなく、身勝手な志向が物事を廃棄する。それが現代ではないでしょうか。農業の世界で見ると、BSE騒動における世間の潮流が端的な事例と言えるでしょう。
今の時代にもし学校の先生が言ったら、問題発言と取られてしまうかもしれないな、と思いました。
聞く側の理解力には期待せず、言葉尻や字面に目くじらを立てる、ぴりぴりした時代になってきていると感じています。
私は生物学に入ったきっかけがドーキンスなので、どうしても適応論的見方で捉えてしまうところがあります。拠り所にしているのは極めて単純な考え方で、1.生物は遺伝子を残すために生きている 2.熱力学の第2法則には逆らえない(エントロピーは増大する) 3.トレードオフの概念(あちらを立てればこちらが立たず)
のみです。だから、遺伝子のベクターと言う点で見て、結婚して子供を残さねば、理論上は(感情を無視するならば)、わざわざエントロピーに逆らって生存している意味は無いことになります。
淵瀬さんの仰ったことが未熟者の私には難しく、しばらく考えてしまいました。しばらく考えた結果私なりに分かってきた用に思います。
淵瀬さんは、好き嫌いによって群集が(それぞれはばらばらだが傾向は生じる)動くことによって全体のマターフローが引き起こされる、その群集のコンポーネントとして一個の生命体を考えていらっしゃるのですよね。
環境の中での個体生命に向かう概念、私の思っているのはその逆であるけれども出ている行き先と出発点がすり合わせられる為上手く考えられる場合もある、ということでしょうか。
マターフロー撹乱要素として見た場合の生きていること、そう考えると生命はそれを構成するためにあるのでしょうか。
それとも、生命が「何かのためにある」と考えること自体、科学ではナンセンスなことなのでしょうか。
その時間における生命は、それ以前の生命による当然の帰結・結果として存在し、その存在がまた次の生命を生み出していく事実に意味などないのかも知れません。
考えているうちに「?」が沢山出てきて、教えていただいた本を絶対読まなくちゃ、と思っています。
自殺予告については同じように思います。意味のあるものにするには、芥川龍之介の文章並みに周到な準備が必要で、それを出来ているのか、というと甚だ疑問ではあります。
他人の身勝手さによりメッセージは埋没し、全く知られない、或いは一時のつむじ風のまま忘れ去られていく。無関心、自己保身、そして事件の元であるいじめそのものも人間の身勝手であると思います。
そうして考えてしまうのですが、一体大人にはいじめは無いのでしょうか。あるとするならば大人のいじめも、子供に負けないくらい陰湿で、社会的に人を攻撃し、追い詰めるようなものであるだろう、と思います。そして、子供のように守る対象になったり、社会的議論の対象にもならないで埋もれているのかも知れません。
一点、大人にいじめはあるか、というと、大有りで、中西(近藤)準子横浜国大教授(日本におけるリスク論の先駆者、外国の後追いという話がないでもないけど)は東大時代に村八分にされて研究費が配分されなかったので外部資金を集めることに腐心したとか。極めつけは教育に新風を、ということで社会人から校長を登用したとき、彼は全ての教師からいじめを受けて自殺に追い込まれたという事もありました。勿論、教師達は何も罰も注意も受けませんでした。