午前中は勉強し、午後から所用で大学院。
色々手続きを済ませてきた。

途中から大雨。生協で傘を買うはめになった。
昼間とは思えないほど暗くなり、空の色がうすい黄土色のようなヤバイ色になっていた。

生協で古典ギリシャ語の教科書を買おうと思っていたが、濡らしてしまいそうなので明日にまわす。
代わりに別の語学テキスト購入。ギリシャ語の方は高いから大事にしようかと(笑)

この大学の建物が私はあまり好きじゃない。
何となく、自分と相容れない感じがする。
だから、研究室でなく大学の方に顔を出すと、精神的にすごく疲労してしまう。
今日は昨日自分に言い聞かせたことを考えていたので、疲労はそんなに出ないで済んだ。

ところで、と言うと非常に不謹慎な感じがするけれど、昨日の朝、伯父さんが他界した。お通夜は昨夜、告別式が今日。
遠くはなれているせいか、全く実感がわかない。
こんな風に、親戚がどんどん他界していく。そんな年齢になったのだろうか。それとも、まだ平均より早いのだろうか。短命の家系?

親戚に老衰で死んだ人はいない。皆癌か、脳溢血で死んでいる。
私も死ぬときは病院で、苦しさを味わって死ぬのだろうか。
私のお父さんは、死ぬ間際、病室でどんな気持ちだったのだろうか。

話はまた全然変わってしまうが、母は私には「警戒心が無い」と言う。その言葉を思い出すような事が昨日あった。
伯父が昨日の朝亡くなり、その日のうちにお通夜をすることについて、母は内心あまりよく思っていなかったようである。母にしてみれば、仕事を休み、遠方から駆けつけなければならない。日頃から忙しいので、これは非常に負担である。

ちなみに、父が死んだとき、通夜は数日後に行われた。(それまでドライアイスで保存した。)

母は、急いで用意された感のあるこの日程に、「(遠方に住んでいる)私に来て欲しくないのからなのか」という感想を漏らしていた。
私はこの言葉を聞かされるまで、そんな可能性についてまるで考えなかった。
忙しい日程だなあとは感じたが、遠方から来る人に嫌がらせとか、もしくは来させないようにするとか、そういった意地悪な工作があるかも知れないという想像は、全くしなかった。
人が自分たちを悪く思ってそんな事をする、という発想がまるでない。

この例はいささか母がネガティブに考えすぎかもしれないとは思うが、私の疑わなさは、素直というよりは「ぼんやり」である。後で、妹もこの日程について母と同じことを考えたと聞いて驚いた。

人を疑ってかかる、という意識が私には不足しているかも知れない。
信じるというと、何となく聞こえが良くなってしまうが、要するに「注意力・観察眼がない」ということだ。
疑うことは悪いことではなく、むしろ生きるために必要で、サイエンスにとってはものすごく大切なことだ。
「信じる」という言葉の方が、科学にとってはご法度
(だから、フランシス・クリックのセントラルドグマ(中心教義)は凄かったと思うが)。

科学をかじっているのに疑うことが不得手なんて、何とも情けないことだと思う。

まとまりなく終わり。
考え付くままにダラダラ書いているので、オチなどない話。

私が信じていればいいのは、悪いときがあれば、良いときも必ずやってくる、ということだけ。自分はうまくやれる、ということを信じていれば良い。今まで自分に自信が無さ過ぎたから。
I have confidence in meって堂々と思いたい。

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